- 誇りある「熊毛」の名の由来
周防国(熊毛郡含む)『日本書紀』によれば景行天皇は熊襲征討に際して周防の裟藦から筑紫に渡ったといい、その地は佐波川下流域付近に比定されている。推古11年(603)には筑紫で没した征新羅大将軍来目皇子「もがり」を行ったという。周防国の成立時期をしめす明文はみられないが、『書記』の天武10年(681)九月条には「周芳国、赤亀を貢ず」とある。天智朝から天武朝にかけて成立したと推察される。
当初は「周芳」と表し、大宝令の施行とともに「周防」にあらためられた。周防総領の存在があった。
713年(和銅6)に「風土記」の編纂命令が 諸国に下された。風土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、狭義には日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。
一般的な「風土記」は律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。
風土記編纂の際に「地名は漢字二文字」で表記するようにと命じられ、以前に「くまげ」は「久米計」などと表記されていたが、風土記に「熊毛」と表記された。それ以降「熊毛」と表記されるようになった。
周防国の成立とともに、まず大島、熊毛、都濃、佐波、吉敷の5評*がおかれた。養老5年(721)、熊毛郡から玖珂郡が分立して6郡になり現在まで変動はない。天平6年(734)の『周防国正税帳』(国衛の年間収支決算報告書)によれば、国司のうち次官を欠いているので当時の国としての等級は第3の中国であった。周防守は従5位下を帯する任官が多く周防国が重視されていたことを示している。喜祥2年(849)までに上国に昇格した。
1956年(昭和31年)9月30日 - 三丘村・高水村・勝間村・八代村が合併して「熊毛町」発足
2003年(平成15年)4月21日 - 徳山市・新南陽市・都濃郡鹿野町と合併して周南市が発足。同日熊毛郡「熊毛町」は廃止された。
- *「評」とは令制前の地方行政単位で、大宝令制の郡にあたる。「こおり」と読む
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